称名寺・加古川城跡(しょうみょうじ・かこがわじょうあと)私の住む街「加古川」の紹介です
加古川市加古川町本町に、「称名寺(しょうみょうじ)」はあります。大きな銀杏の木が印象的なお寺「称名寺」は真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
この場所は、かつて織田軍が西国毛利攻めをするときに、軍議が開かれた「加古川城」別名「糟屋の館(かすやのやかた)」があったところです。
賎ヶ嶽七本槍の一人、12代城主「糟屋 武則」
三木合戦のときには、加古川地域の他の城が全て三木の別所方に付きましたが、唯一、織田方に付いたのが、12代城主「糟屋 武則」でした。
後に、「豊臣 秀吉」のもとで活躍し、賎ヶ嶽七本槍(しずがたけしちほんやり)の一人として武名をあげました。
称名寺 入口、山門、本堂、毘沙門堂、不動堂、大師堂
城外に堀が掘られていたようです。堀が架かる石橋を渡ると「山門」に続きます。山門をくぐると広く静かな境内に堂々とした風格の銀杏の木。
奥の正面には阿弥陀如来を本尊とする「本堂」があります。右手には「毘沙門堂」、屋根には毘沙門の毘の文字が入った丸瓦が葺かれています。
左手には、裳階(もこし)という庇(ひさし)の付いた「相輪塔」があります。この建物は、不動明王が祀られている「不動堂」で、中に護摩壇があり、護摩法要が行われます。
そして、不動堂の左手奥に「大師堂」、前に「弘法大師の像」があります。
七騎供養塔(七騎顕彰碑)
境内の中ほどには、文政3年(1820年)に建てられた「七騎供養塔(しちきくようとう)」があります。
南北朝時代に出雲守護であった「塩冶 高貞(えんやたかさだ)」が京都を追われ、本国の出雲に落ちていくとき、「足利 尊氏」の軍勢に追いつかれてしまします。
そのとき、塩冶 高貞の弟と6人の武将が「塩冶 高貞」を護ろうとして討ち死にしてしまいます。人々は、この7人の忠節を憐れみ、塚を築いて熱く葬ったということです。
この「七騎顕彰碑(しちきけんしょうひ)」は、文章も文字も江戸時代の儒学者である「頼山陽(らいさんよう)」によるものです。
「七騎顕彰碑」の右手には、加古川出身の俳人「吉田 白馬」の墓碑があります。「死にとふも 死にとむなふも なかりけり 死ぬるときとて 今死ぬる也」15日間、絶食のうえ詠んだ辞世の句です。
※後に「塩冶 高貞」は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する「塩冶判官のモデル」として取り上げられ、忠義話として紹介されました。
一際目を引く銀杏の大木
一際目を引く「銀杏の大木」は、秋には境内を黄色く染めます。安永4年(1775年)に書かれた古文書に「銀杏三本」目通り4尺7寸と記され、昔から、加古川の町の目印とされていたことが伺えます。
天を仰ぐ銀杏の木は、長い時の流れの中で静かに加古川の町を見守ってきたのではないでしょうか。
「称名寺」を訪れたときには、歴史を見続けてきた銀杏の木に、思いを寄せてみてください。
マップ(称名寺・加古川城跡)
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