光念寺(こうねんじ)私の住む街「加古川」の紹介です
加古川市加古川町寺家町に、「光念寺(こうねんじ)」はあります。
かつて、寺家町通り(じけまちどおり)は、加古川宿として西国街道を往来し、加古川を渡る人々で賑わう宿場町でした。
「光念寺」は真宗の寺院で、かつて加古川宿本陣の南に隣接したお寺でした。本尊は「阿弥陀如来(あみだにょらい)」です。
「大石 内蔵助」の桜石「原 宗右衛門」の源平屋島合戦枕屏風
「光念寺」は真宗大谷派の寺院で、慶長元年(1596年)「本多西賢(ほんださいけん)」が創建しました。本堂には本尊の「阿弥陀如来」が祀られています。
三代目住職「龍心(りゅうしん)」の妻は、赤穂浪士の一人「原 惣右衛門」の妹でしたので、この寺には「原 惣右衛門」ゆかりの「書状」や「大石 内蔵助」の「桜石」が伝わっています。
「大石の庭の櫻のなごりにて、花のすがたを石にのこせり」
また「原 惣右衛門」が大切にしていた「源平屋島合戦の枕屏風」も残されています。
松岡 青蘿(まつおか せいら)ゆかりのお寺
光念寺は、江戸時代の俳人「松岡 青蘿(まつおかせいら)」ゆかりの寺です。境内には、墓と顕彰碑があります。
「松岡 青蘿」は、元文5年(1740年)前橋藩士の武士の子として江戸で産まれ、二十歳のとき姫路藩に移された後、暇を命じられ諸国吟遊の生活に入ります。
青蘿は、「松尾 芭蕉」を敬愛し、俳諧を志します。
栗本庵(くりもとあん)栗の本 青蘿(くりのもとせいら)
俳諧師となった青蘿は、明和4年(1767年)に加古川宿を訪れました。加古川宿の有力な庄屋や町人は、文化の良き理解者たちでした。
そこで、青蘿は光念寺あたりに「三眺庵」という庵(いおり)を結んで暮らしました。この三眺庵の庭に、栗の木があったことから、人々から「栗本庵」と呼ばれ、青蘿自身も「栗の本 青蘿(くりのもとせいら)」と呼ばれました。
栗の本の号と栗本庵は、玉屑(ぎょくせつ)や可大(かだい)など、代々門人へと受け継がれ、幕末まで続いたそうです。
光念寺、俳人松岡青羅 ここに眠る。
残念ながら、現在この門流を継承するものはいませんが、門流と庵がこれほど長く受け継がれた例はあまりありません。
境内には、門人たちにより「青蘿塚」が建てられ、そこには青蘿の辞世の句が詠まれています。
「ふなばたや 履ぬぎすつる 水の月(布南波太也 履奴幾寸津留 水乃月)」
俳人、松岡青蘿ここに眠る。
マップ(光念寺)
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