他人(ひと)のために「常楽我浄」お寺で頂いた心に沁みる言の葉【rewrite】
「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という言葉を聞いたことがありますか?
聞きなれない言葉かもしれませんが、「常楽我浄」は、私たちが無意識のうちに理想として追い求めている姿で、私たちの日常の姿は、この四つの「常・楽・我・浄」を満たそうと絶えず頑張っているのです。
そこで今日は、お寺でいただいた心に沁みる言の葉「常楽我浄」について書かせていただきます。
仏様の教えである「常楽我浄」と言う理想の姿と、人間界の「四顛倒(してんどう)」と言う日常生活の矛盾についてのお話です。
常楽我浄という言葉の他に四顛倒という新たに分からない言葉が出てきましたが、一つずつ紐解いていきます。
最後までお聞きいただければ、幸せになれる方法に気付いていただけるかもしれませんので、最後までお読みいただければと思います。
【rewrite】2022.08.29 【original posting】2021.05.05
「常楽我浄」 という四つ言葉の意味
「常楽我浄」 という四つ言葉は、仏様の四つの徳「四徳(しとく)」のことで、
お坊さんの言葉のままお伝えすると、
◆「常」は、常住不変の「常」
◆「楽」は、安楽で苦を離れた「楽」
◆「我」は、自在で障り(さわり・妨げの意)となるもののない「我」
◆「浄」は、迷いがなく無垢 (むく) 清浄である「浄」
お坊さんは「転じて、極楽浄土(ごくらくじょうど)にいるように何の心配もなく、のどかな生活と言う意味です。」と仰っていました。
もう少し分かりやすく言うと
◆「常」は、仏様の境涯は常住で永遠に不変不滅である
「境涯」とは生きてゆく上での立場。境遇。身の上のことで「常住」とは変化しないで常に存在する、という意味です
◆「楽」は、仏様の境涯は人間の苦を離れたところに真の安楽がある
つまり一切の苦楽に左右されない、ということです
◆「我」は、仏様の境涯は人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
つまり、仏様の境涯は自立していて他から何の束縛も受けない絶対の自由である、ということです
◆「浄」は、仏様の境涯は煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
この「常楽我浄」は私たちが無意識のうちに理想としている姿で、この四つを満たそうと絶えず頑張っているのが私たちの日常の姿なのです。
ところが、この理想は到底、人間界では満たされることはありません。
何故なら、私たちは、病気や怪我をし、いつかは老いて、やがては死んでいく身だからです。
ですから、心の願いである「常楽我浄」を実現させようとすればするほど、我が身の現実と、そうではない理想との間に矛盾が生じてしまい、人間界の日々の生活には苦しみが絶えることがない、ということを仏様は教えてくれているのです。
「常楽我浄」と「四顛倒(してんどう)」
このような「常楽我浄」という仏様の智慧(ちえ)は、人間界では姿を変えてしまっています。これを仏教の言葉で「四顛倒(してんどう)」と言います。
「四顛倒」とは「常・楽・我・浄」に反して「無常・苦・無我・不浄」を意味しています。
「顛倒(てんどう)」とは「逆立ち」「ひっくり返った」という意味で人間界では仏の境涯である「常楽我浄」からみると真逆なひっくり返った世界であると言っているのです。
人間界ではそれが真実なのです。
つまり、
「常」は、人間界では、全てのものは一瞬一瞬に変化をくり返し固定不変で同じ状態を保つものはないので「無常」が真実
「楽」は、人間界では、楽であってもいつかは苦に変わる。何故なら楽であっても、もっと楽でありたいと求める心、つまり欲や煩悩が働いてしまうので最終的には楽が破られて「苦」になることが真実
「我」は、人間界では固定不変の魂(我)などは存在しない。つまり、自分という固定されたものが存在するのではなく、自分は常に変化する存在なので「無我」が真実
「浄」は、人間の肉体や心は綺麗ではない。つまり人間の実相は、穢れた身であり、穢れた心であるので「不浄」が真実なのです。
「常楽我浄」に対する日常の矛盾
このように、仏様の智慧である「常楽我浄」に対して、人間界では「無常苦無我不浄」が真実の姿になるのです。
しかし、物心ついて以来、知らず知らずのうちに「常楽我浄」を満たそうとして生きている私たちは、日常生活で「常楽我浄」に相反する「無常苦無我不浄」に幾度も遭遇することになり、どんどん矛盾が生じてくるのです。
それは、自分を中心に考え行動しているからで、自分中心にものごとを見てしまうと我が身でさえ生きるための道具のように考えてしまうのです。
やがては老いてゆく我が身を嫌い、病になる我が身を恨み、いつしか命終る我が身を恐れて生きることになるのです。
これが「常楽我浄」に相反する「四顛倒」の意味で、仏様はそういう私たちの間違った考えを目覚めさせようと促してくれているのです。
自分中心にものごとを考えたり、自分さえ良ければ他人を追いやったり、自分を守るために嘘をついたりしていたら「苦」はいつも隣り合わせにいることになります。
七つの正しい行いと努力で人を幸せにする
お寺で教えていただいたことは、矛盾や執着を蓄積しないためには、自分中心の考え方やエゴを捨て
「七つの正しい行いと努力」
「正しい考え」「正しい見方」「正しい言葉」
「正しい姿」「正しい仕事」「正しい生活」そして、
「正しいことを続けていく努力」が必要であるということです。
そして、他人(ひと)のためになる行動をし、相手が喜ぶ言葉をかけ続けることで「周りの人が幸せになれば自分も幸せになれる」
つまり、人間界では到底満たされないかもしれない理想である「常楽我浄」に、そうし続けることで近づくことができる、ということを教えていただきました。
「常楽我浄」と「四顛倒」である「無常苦無我不浄」この言葉とその意味を頭の片隅に留めながら日々の生活で「七つの正しい行いと努力」を続けていただくことで、幸せになっていただけると思っています。
最後までお読みいただき有難うございます。
YouTube動画でもご覧いただけます
信心について考えてみる
何か重大な局面や岐路に立たされたときは、
神様や仏さまに
「うまく行きますように」とか「助けてください」と
願う人も少なくないと思います。
お正月や元旦には、信仰心のない人でも、
初詣に出かけ、神様や仏様に
「今年も幸せな年となりますように」と願掛けをすると思います。
この機に、信心について、考えてみてはいかがでしょうか。
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