神吉の常楽寺(かんきのじょうらくじ)神吉城跡 私の住む街「加古川」の紹介です
加古川市東神吉町神吉、県道、高砂北条線の神吉バス停から東に入ると、路地に民家が建ち並びます。
その静かな街並みの一角に「神吉の常楽寺(かんきのじょうらくじ)」はあります。
加古川市内には、常楽寺と言うお寺は三つありますが、神吉の常楽寺は、戦国時代の神吉城があった所に建立されたお寺です。
城の構えをそのまま残した石垣、その高台に「常楽寺」が建てられています。石段を登り山門をくぐると、正面の息吹の大木が、参拝者を迎えるかのように枝を風になびかせます。
常楽寺は神吉氏の菩提寺です、神吉合戦
奥に進むと、静かな境内が広がります。
もともと、神吉の常楽寺は、正慶2年(1333年)、播磨の守護「赤松 則村」によって、現在の場所より西方、西神吉町中西に建てられ、赤松氏の没落と共に、寺はその子孫である「神吉氏の菩提寺」になりました。
戦国時代、加古川近辺には、加古川城、野口城、神吉城など、三木城の城主「別所 長治」の配下にある出城がありました。
加古川城で開かれた軍議で、秀吉と決裂し、織田軍に反旗を翻したのが「別所氏」です。その別所方についた神吉城主「神吉 頼定」は、織田軍に攻められます。
それが、天正6年(1578年)の「神吉合戦」です。
性春上人が建てた常楽寺は「国の登録文化財」です
形勢の悪い中、神吉勢は奮闘しましたが、身内の裏切りによって陥落し、神吉城と共に常楽寺も焼きおちてしまいました。
その後、打ち取られた城主「神吉 頼定」や、共に戦った家臣たちを弔うため「性春上人(しょうしゅんしょうにん)」が、神吉城の本丸跡に、常楽寺を建てました。
現在の本堂は、元禄5年(1692年)に再建されたもので、本尊の「阿弥陀如来」が祀られています。
平成20年、本堂をはじめ、薬師堂、鐘楼、山門が、それぞれ「国の登録文化財」となりました。
神吉頼定の墓と一対の灯籠、宗空地蔵
本堂の左手奥の墓地には、神吉 頼定の墓があります。
昭和55年に御廟が改築され、一対の灯籠も建てられました。
その左手には、石仏、宗空地蔵(そうくうじぞう)が祀られています。江戸時代、宗空は、我が身を犠牲にして村同士の争いを鎮めました。
常楽寺と同じ敷地内に建つ神吉神社
その横には、石棺仏の中でも珍しい、石棺全体に手を加えて造られた石仏が祀られています。
常楽寺と同じ敷地内に、神吉神社があり、明治時代の神仏分離令によって、寺と神社が分けられ、今日に至っています。
春の花見の頃には、山門前のしだれ桜が、参拝者の目を楽しませてくれます。
マップ(神吉の常楽寺)
関連した記事を読む
- 2024/11/19
- 2024/11/18
- 2024/11/17
- 2024/11/16