中西廃寺 私の住む街、加古川の紹介です。
加古川市西神吉町中西、そこに、中西廃寺(なかにしはいじ)はあります。
高台の住宅が建ち並ぶ一角に木造のお堂が建っています。
ここには、かつて大規模な寺院が建てられていました。中西廃寺です。
古代寺院 古墳から寺院創建へ
7世紀後半、仏教思想の広がりとともに、古墳が築かれなくなり、急激に寺院が建てられるようになります。
この頃に建てられた寺院を古代寺院と呼びます。奈良時代の古代寺院の記録は、全国的に大変少ないのですが、ここ東播磨では、発掘調査によって多くの古代寺院が、廃寺として確認されています。
豪族たちは、古墳造りから寺院創建へと方向性を変え、まさに東播磨は、その中心地域でした。
塔の芯柱に添える石、心礎
現在、中西廃寺には、塔の芯柱に添える石、心礎(しんそ)が残っています。
心礎は、巨大な自然石を使用し、中央に円形の穴と、その周りに円形の溝が掘られ、さらにその内側に6本、外側に1本の溝が、放射状に掘られています。
この溝は、芯柱を伝ってきた雨水を排水するために、掘られたものと考えられています。
法隆寺式伽藍配置
心礎は、このあたりにあった塔の跡を基準に、東に金堂、北に講堂、と法隆寺式伽藍配置を推測する資料となりました。
また出土した軒丸瓦は、12世紀ごろのものと考えられています。そのことから、中西廃寺は、7世紀末に創建され、12世紀ごろまで続いていたと推測されています。
その他、中西廃寺から出土した石造品には、凝灰岩で造られた露盤、受け花、花崗岩質の刹(さつ)があります。
石井の清水(いわいのしみず)弘法の井戸
中西廃寺の南側には、石井の清水(いわいのしみず)と呼ばれる、湧水の井戸があります。井戸枠には、中西廃寺の露盤と、円筒状の刹が使われています。
この井戸は昔、弘法大師が杖で付くと、突然水が湧いてきたと言われ弘法の井戸とも呼ばれています。
この土地を治める豪族の繁栄とともに、その豪族の氏寺として、加古川の右岸地域で、唯一繁栄を誇った古代寺院。今は、江戸時代に建てられた薬師堂がひっそりと佇んでいます。
マップ(地図)
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