長楽寺(ちょうらくじ)「谷の地蔵さん」私の住む街「加古川」の紹介です
加古川市志方町永室、標高およそ250メートルの大藤山の麓に、古くから「谷の地蔵さん」と呼ばれ、人々に親しまれている「長楽寺(ちょうらくじ)」はあります。
ダンベ池の北一帯を「谷(たに)」と呼んでいます。
長楽寺は、浄土宗の寺院で、和銅6年(713年)慈心上人の開基です。
女人安産の札所、歴代天皇の勅願所
大藤山長楽寺(おおふじさんちょうらくじ)は、和銅6年(713年)、慈心上人(じしんしょうにん)の開基と言われています。
高倉天皇が平清盛の娘、中宮健礼門院の安産を念じ、丹波老ノ坂の子安地蔵尊に祈願したところ、安らかに玉のような王子が産まれました。
そこで平清盛に銘じて、全国66州に一体ずつ地蔵尊を安置させ、ここ長楽寺にも祀りました。
それ以降、このお寺は女人安産の札所、また歴代天皇の勅願所として広く信仰されるようになりました。
長楽寺は、天正6年(1578年)に始まった三木合戦の兵火により、伽藍全てを消失しましたが、專空念教法師(せんくうねんきょうほうし)が常行念仏堂(じょうぎょうねんぶつどう)を建立し、その後、宝永3年(1706年)に浄土宗の寺院として再建し、今日に至ります。
延命子安地蔵菩薩は国の重要文化財です
本尊の延命子安地蔵菩薩(えんめいこやすじぞうぼさつ)は、国の重要文化財に指定されています。高さ、およそ72センチメートル、台座を含めると120センチメートルの寄木造りの像です。
左足は少し前に出し、右足は膝を立てています。建てた膝に右肘をつき、手は軽く頬に触れ、左手には錫杖を持っています。
その姿は、仏説延命地蔵菩薩経に記されている、初めて大地から現れた地蔵菩薩の姿と同じだとされています。
14世紀中ごろの南北朝時代の作と言われていますが、平安時代の様式を思わせるような優美な姿と、柔和な表情が、とても印象的です。
長楽寺の地蔵盆踊り
毎年8月23日には、地蔵盆おどりが行なわれます。
永室町内会や、地蔵盆おどり保存会の人たちによって行われるこの祭りは、10メートルの檜の棒に、薦(こも)で巻いた大綱をくくり付け、その上に乗り手が立ち町内を練り歩きます。
長楽寺では、水子供養献灯会が行なわれ、盆踊りが始まります。町内を練り歩いた太鼓は長楽寺へ向かいます。傾斜のきつい参道の階段を一気に駆け上がり、やぐらを回り祭りは熱気に包まれます。
大藤山のハイキングコース、蛇が池と釣鐘
大藤山には、東ルートと西ルートのハイキングコースがあります。
地元のボランティアグループが整備した遊歩道を登って行くと、1600年前後に造られたとされる石仏に出会え、山の中腹からは、加古川や高砂の街が見渡せます。大藤山を越えたところに湿地帯が広がります。
この湿地帯は、蛇が池(じゃがいけ)と呼ばれています。
天正7年(1579年)秀吉が神吉城を攻めているときに、一本の鏑矢が北の方から飛んできました。矢には「谷」と銘が入っていたので、4キロメートル隔てた谷の長楽寺から射込まれたものだと分かり、怒った秀吉は、長楽寺を焼き払うように命じました。
打ち手を差し向けられた長楽寺の住職は、本尊と釣鐘を背負って、大藤山を越え、この蛇が池に釣鐘を沈めました。
蛇が池掘り、釣鐘と大蛇伝説
今もこの池の底には釣鐘があり、池の主である大蛇が、しっかりと抱いていると言われています。
また、日照りが続くと村人は雨乞いのため、鐘掘りに行きました。蛇が池掘りとも言い、池を掘って中から鐘の竜頭(りゅうず)が現れると、大蛇が怒って大雨を降らせると伝えられています。
谷の地蔵さん長楽寺と、大蛇伝説が残る大藤山のハイキングを、楽しんではいかがでしょう。
マップ(長楽寺)
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