加古川河口(かこがわかこう)私の住む街「加古川」の紹介です
兵庫県の南西部を流れる一級河川「加古川(かこがわ)」流域面積1,730平方メートル、幹線流路延長96キロメートルと、兵庫県屈指の河川です。
「加古川」は、朝来市と丹波市の境にそびえる標高962メートルの「粟鹿山(あわがさん)」を源としています。
加古川の支流、そして播磨灘へ
一級河川「加古川」は、粟鹿山を源とし、北から
「篠山川(ささやまがわ)」
「比延谷川(ひえたにかわ)」
「杉原川(すぎはらがわ)」
「東条川(とうじょうがわ)」
「万願寺川(まんがんじがわ)」
「美嚢川(みのうがわ)」の支流を合流し播磨灘に灌いでいます。
加古川では舟運(しゅううん)が行なわれていました
文禄3年(1594年)、「阿江 与助(あえよすけ)」ら3人が、「闘竜灘(とうりゅうなだ)」から河口まで、船の水路を開いたことに始まります。
それにより江戸時代、加古川は「高瀬舟」と呼ばれる船底の浅い木船により、物資の輸送が盛んに行われました。
3人が一組となる加古川を下る「高瀬舟」には、年貢米や各地の農産物などが積み込まれ、荷を下ろした船には、塩や干鰯などを積み込んで、川を上っていきました。
320年にも及ぶ加古川の舟運は幕を閉じるのです
加古川の舟運は重要な役割を果たし、河口周辺は「舟運(しゅううん)」による物資の集散地として、城下町である姫路に次いで繁栄しました。
しかし明治以降、船座が廃止され、大正2年の播州鉄道、今のJR加古川線の開通とともに、高瀬舟による輸送は縮小し、320年にも及ぶ加古川の舟運は幕を閉じました。
加古川河口の川幅はおよそ600メートル
高瀬舟が行き交っていた、かつての加古川河口は、左岸が加古川市、右岸が高砂市、両岸ともに工場が建ち並ぶ工業地帯になっています。
加古川の河口は、川幅がおよそ600メートルにも広がり、中洲や干潟ができています。そこには葦が育ち、「ハクセンシオマネキ」など貴重な生き物がたくさん生息しています。
「ハクセンシオマネキ」の雄は片方に大きなハサミを持ち、白い扇を仰ぐようにハサミを動かすことから、「ハクセンシオマネキ(白扇潮招)」の名が付いてようです。
夕暮れの加古川の風景
また、穏やかに流れる岸辺には、野鳥が集まってきます。潮の香りがする河口付近では、強い風に乗ってウィンドサーフィンを楽しむ人も見かけます。
沖には播磨灘を行き交う貨物船の姿が見えます。夕暮れ時、対岸に工場のシルエットに夕陽が沈んでいきます。
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