横蔵寺(おうぞうじ)私の住む街「加古川」の紹介です
加古川市平岡町新在家、加古川バイパス加古川東インターのすぐ北に、道林山「横蔵寺(どうりんざんおうぞうじ)」はあります。
参道手前に墓地があるのですが、その中には、土を盛って石が置かれただけの、素朴な墓が見えます。
古い時代の「三昧(さんまい)」というお墓で、この寺には今もそのまま残っています。
横蔵寺(おうぞうじ)の歴史
山門に差し掛かる右手奥には「弁天堂」があります。
「横蔵寺」の歴史は古く、奈良時代の白雉4年(653年)に、「法道仙人(ほうどうせんにん)」によって造られました。
平安時代には第58代「光孝天皇の祈願所」となり、次の「宇多天皇」は退位した後、出家しこの寺に隠居したと言われています。
かつては、真言宗の寺で広大な寺領を持ち、近くの「寺田池」は、もともと、この寺の領田を潤すために造られたものと言われています。
横蔵寺山門の細やかな板彫刻、花、獅子、竜
山門は細やかな板彫刻が施されています。門扉に花が、その両脇には獅子、上には竜が掘られています。
山門をくぐると正面に木造の「観音堂」があり、25年に一度開帳される秘仏「十一面千手千眼観音」が祀られています。
この観音様は、鎌倉時代の仏師、運慶(うんけい)と湛慶(たんけい)親子の合作と言われています。
この観音様には、父と子の伝説が伝わっています。
運慶(うんけい)、湛慶(たんけい)、観音様
離れ離れに暮らしていた父と子に観音様が夢で話しかけます。
父「運慶(うんけい)」には左半分の像を造り、それを背負って西に向かうと子に会えると、また、子「湛慶(たんけい)」には右半分の像を造り、それを背負って東に向かうと父に会えると言うのです。
加古川を渡り、野口村まで来た湛慶が腰を下ろして休んでいると、隣に東の方から来た男が背負っていた荷物を下ろします。
そこで、二人は対面しお互いが背負っていた左右半分の像を合わせたところ、見事に一体の観音様となり光り輝きだしました。
「湛慶」が、この半身の像を横に背負っていたことから、この観音様を「横負いの観音様」と名付けて、村人たちは大切に祀りました。
運慶と湛慶が出会えて腰を下ろした「腰掛石」や「出逢いの松」が、今も近くの野口町の「荒神社(こうじんじゃ)」に残されています。
播磨西国三十三観世音霊場巡りの第29番の札所
観音堂の右奥に法道仙人が祀られた「開山堂」があります。
観音堂から渡り廊下で続いた「本堂」には、曹洞宗の本尊である「釈迦牟尼仏」が祀られています。
本堂の前は手入れが行き届いた「回遊式の日本庭園」が広がり、琴の音色に聞こえる「水琴窟(すいきんくつ)」の水の音が、参拝者の耳を楽しませてくれます。
春の桜など四季折々の花が咲く緑豊かな境内には、世の中の喧騒を忘れさせてくれそうな癒しの空間が広がります。
江戸時代、元禄年間に真言宗から曹洞宗に変わり、現在は座禅や詠讃歌(えいさんか)、写経が盛んに行われ「播磨西国三十三観世音霊場巡りの第29番の札所」になっています。
マップ(横蔵寺)
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