阪神淡路大震災から24年 1.17希望の灯は、失われた命と残された命をつないで、あの日の出来事を静かに語りかけているようです
神戸市中央区の東遊園地で、追悼のつどいが行われました。
6434人の命を奪った阪神淡路大震災から、今日で24年。
絆や結といった文字が刻まれた竹灯籠には、ロウソクが浮かべられ、希望の灯から分けられた火が灯されました。
そして、午前5時46分、黙祷。
当時、私は、神戸市須磨区の営業所に勤務していました。瓦礫が散乱していて、トラックやダンプカーが行き交う道路を、ミニバイクで走りながら、避難所にお客様を探しに行ったことを記憶しています。
はるかのひまわり 命の大切さを伝える
加藤はるかさん、当時11歳。
全壊した自宅の下敷きになり命を亡くしました。その年の夏、亡くなった自宅跡地に、ひまわりの花が咲き、「はるかのひまわり」と名付けられて、その種は、各地に広がり、天皇陛下にも贈られました。
天皇陛下は、今も大切に育てられています。そして、昨日、平成最後の歌会始めの儀で、その『ひまわり』を歌に詠まれました。
天皇陛下は、24年前のことを忘れずにいてくださり、震災犠牲者や残された遺族に、今もなお、寄り添ってくださっていて、命の大切さを伝えてくださっていると、実感いたしました。
全ては「阪神淡路大震災」から変わって行きました
戦後まもなく、気象庁が震度7という基準をもうけましたが、平成を振り返ってみると、震度7を超える地震は立て続けに起こりました。
阪神大震災、新潟の中越地震、東日本大震災、熊本地震(2回)、北海道胆振東部地震、そして約3万という尊い命を失いました。
地震が起こる度に、防災体制の見直しが行われてきました。
平成8年(1996年)に、官邸危機管理センターが設置され、24時間体制で召集されるようになりました。
そして、自衛隊の被災地への自主派遣体制が機能するようになり、救出への初動が早くなりました。当時は、「住民の自力で、なんとかしろ」というのが大原則でした。
また、阪神淡路大震災以降には、災害に対してのいろんな法律が出来上がり、大きく変わったのが、SNSの発信ツールによる「緊急地震速報」です。
阪神淡路大震災の犠牲者の約8割が窒息や圧死だったと言われています。『緊急地震速報』は、1秒でも早く、慌てず、まず身の安全を確保することが大事だということで、始まったものです。
限界を乗りこえる原動力は、阪神淡路大震災での教訓、「絆」です
しかし、いろいろなことが、見直され、進歩していますが、まだまだ限界があり、その限界をどう乗りこえるのか。
その原動力が「絆」です。それは、阪神淡路大震災が教訓となっています。
阪神淡路大震災で救助された77%の方々は、家族や近隣住民により救出されています。いかに地域との繋がりが大事なのかということが、この教訓です。
そして、その教訓が、活かされて作られたのが、「自主防災組織」です。自主防災組織がたくさんでき、地域の絆が固く結ばれるよう、震災の記憶を後世に伝えていきたいと思っています。
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