寺家町商店街と寺家町周辺(じけまち)私の住む街「加古川」の紹介です
JR山陽本線「加古川駅」の南西側一帯を「寺家町(じけまち)」と言います。そして、その中心にあるのが「寺家町商店街(じけまちしょうてんがい)」です。
江戸時代から「寺家町」は、加古川の渡し場で、西国街道を旅する人々の宿場「加古川宿」として大変、賑わっていました。
その昔、「寺家町」には、参勤交代の便を図るため、藩主の宿舎となる本陣が置かれていました。そして、加古川宿の本陣は、大庄屋であった「中谷家」が務めていました。
樹悳堂(じゅとくどう)は明治天皇が行幸の際、昼食をとられました
陣屋は、姫路藩の加古川役所として宝暦2年(1752年)に建てられ、参勤交代で訪れる大名の応接などに使われていたそうです。
「明治天皇」が行幸(ぎょうこう)のときに、昼食をとられたことでも知られていて、「樹悳堂(じゅとくどう)」と名付けられました。「樹悳堂」は、加古川宿の面影を残す貴重な建物として、平成10年「加古川市指定文化財」になりました。
江戸時代中期以降、商工業が発達し、武士以外の人々が旅をすることも多くなり、このあたりも、旅籠(はたご)、飯屋、小間物屋などが建ち並びました。
旅館や呉服、洋服などの服飾店を中心に発展してきた現在の寺家町商店街は、その名残をとどめています。
娯楽の中心だった寺家町、そして衣食住の情報発信地だった寺家町商店街
明治32年、日本毛織株式会社加古川工場が操業を開始し、寺家町商店街や本町商店街は、仕事の終わった工員さんたちで賑わいました。
この頃から行われた「加古川誓文払い」は、商店街の年末の大安売りで、昭和50年頃まで、その盛況ぶりが続きました。
当時は、寺家町に行くことが娯楽であり、ここは、衣食住の情報発信地でした。
現在も、これまでの「加古川誓文払い」に加え、「土曜夜市」など、新しくイベントを開催し、人々が集まる楽しく親しみのある商店街になっています。
昭和を彷彿させるようなレトロな建物、そして歴史を物語る古い町並みの寺家町周辺
寺家町周辺を歩くと、黒壁の旧家や商店の軒先の梲(うだつ※)など、歴史を物語る古い町並みが今も残っています。
「検番筋(けんばんすじ)」など、歴史を感じさせる呼び名が残っている界隈、細い路地の多い町並、ビルの谷間にある「北向き地蔵」、日本のベートーベンと呼ばれた「豊澤団平(とよざわだんぺい)」の石碑、昭和を彷彿させるようなレトロな建物。
若い世代が、新鮮で新たな街の表情として、それらを受け継いでいます。そんな、寺家町周辺を訪れてみませんか。
※梲(うだつ):日本家屋の屋根に取り付けられる小柱で、防火壁のことです。後に自己の財力を示す装飾の役割にもなりました。
マップ(寺家町周辺)
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